というkomichiさんの疑問に自称ウヨの俺が思うところを述べてみたい。
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格差社会とか対米依存とか色々と言われているが、それでも現状を肯定するのは、「その方がましだから」と考えた結果である。左翼思想よりは右翼思想の方がはるかにましだ、と。
それは左翼思想の結実たるフランス革命やロシア革命、あるいは日本における学生紛争などを見ての考えであり、「こんなのやるくらいなら現状の方がまだマシだよ」と思うに到った。
よくよく考えれば、俺は左翼が批判する「体制側」に生まれたときから組み込まれている。そしてこの体制というのが左翼の言うほど悪いものではない、と感じている。一部の人にとっては嫌な存在なのだろうが、その一部の人の行動が「無意味に日本の治安を乱した人々」であるならば、こんなのイラネと言うしかない。
現状の体制が最高至上のものである、とは決して思わないが、紛争・戦争が耐えない諸外国や、独裁者に支配されている国家に比べれば桁違いの天国であるのに変わりはない。少なくとも俺は天皇批判をしても(文句は言われるだろうが)牢獄にぶちこまれる事はない。政府の政策を批判しても、それで処刑になることはない。
今まで何度も繰り返されてきた言葉だが、こういう言葉に説得力があるので左翼思想を敬遠する事になった。
また、これは最近になって考えがまとまりはじめたのだが。
左翼思想の根底にある「平等」という考えが全く理解できない、賛同できないのにも原因があるかもしれない。極端な事を言えば「格差社会の受容」という考えが根底にあるから、全ての存在が全くおなじ水平に立っているという考えになじめないのだ。
全ては全く違う。
と言っていいかもしれない。
あるいは、
誰もが不平等だ。
ともなる。
顔かたち、性格、人格、経歴などなど。同じ人間という種族の中であっても、我々は一人として同じではない。どこまで似通ってもあくまで他人だ。全くおなじということはない。
一個の生命体である、という点では共通するが、その共通点を土台にして成り立つ我々一人一人はあまりにも違う。
そんな不平等が当たり前なところに平等を持ち込もうというのが無理である。
「個人の違いを無視して全てを均等にする」
という考え方は、結局は破綻する。
「個々人の違いを鑑みて、適切な結果を採用する」
というならまだ分かるが。
個人的に前者を平等、後者を公平、と言っている。
平等は、能力や性格などを無視して全てを均等にすること。差など生まれようがない。
公平は、能力や性格の違いによって与えるものや量を変えること、当然差が生まれる。
どちらの方がましだろうか?
格差社会、というものを例にとって考えてみたい。
まず、格差が生じるというのは悪いことではない。頭のいい奴や働く奴がより多くの報酬を得るのは当然の結果だ。それが悪いなんてこれっぽっちも思わない。少なくとも怠け者に配分がいくよりはましだ。
これは個々人の能力の違いである。仕方がない。怠け者を排除するためには必要な措置である。
ちなみに怠け者というのは、「働けない者」ではない。「働こうとしない者」である。やりたくても障害や事情のせいで出来ない、という者には大いに同情するが、何もしようともしない連中には一切の憐憫がわかない。さっさとくたばれ、といいたい。
俺もそれほど多くを見たわけでもないが、怠け者の共通点は、「言い訳をする」「言い訳が通じないと逆ギレする」「それも通じないと嘘泣きをして同情を引こうとする」ということであろうか。なんとなく篠原を思い出したのは気のせいだろう。
実際職場でこういう奴に出会ったのだが、どうしようもない奴だった。こういう奴にとっては「何もしなくても一定の所得がある」というのが甘美に思えるのだろう。ふざけんなといいたい。
こういう実例を目の前で見てきたから、俺は平等というのが嫌いである。
結果的に差が出るのが当たり前、と思っておいた方が世の中は良くなると思われる。
さて、格差社会がなぜ危険視されるのか。
それについては二つほど理由が考えられる。
・たんなる僻み
・公平性の欠如
前者は富裕な人間への羨望や嫉妬からくる低俗な考えである。「あいつはあんだけ裕福なのに、なんで俺はこんな状態なんだ。不公平だろ!」というアレである。こういうあほな意見に同調したり共感するほど暇ではないので、これ以上何も述べるつもりはない。ただ、「ふーん」と言って冷たい目で見つめ続けるに留めよう。
問題なのは後者である。
公平、というのは「違いを認める」という前提に続き「その違いに応じて結果を得る」というのが基本になっている。
同じ作業内容ならば、より多く働いた者に多くを得る権利がある。
作業を効率化させてよりスムーズに運営できるようにした者には、より大きな成果を約束するべきである。
自ら事業計画を立てて仕事をしている者と、上からの命令に従って作業をこなしている者には大きな差がある。
こういった差を認め、その結果に違いが出るのが当たり前、と思わなければいけない。
さて、こういう前提に立った場合、一番の害悪は何になるか。それを考えれば自ずと答えは出てくる。
可能性の否定、である。
人間の能力と才能には確かに差があり、優劣が存在する。そして、それを埋めて、なおかつ越えるための努力というものが存在するのもよく知れ渡っている。また、才能や努力と同時に運という要素もある。
これらが組合わさって結果が出てくるのだが、それを否定するのが格差社会の悪いところだろう。どれだけ働いてもたいした差が出てくるわけではない。地位が上がるわけでも収入が増えるわけでもない。休暇もどんどん減っていくとなれば、馬鹿馬鹿しくなっていく。
格差社会を危惧する者達は、おそらくこういう事態を危惧しているのではないだろうか?
究極的には、格差が生じることすらも容認できるだろう。
だが、努力が認められないのがいやなのではないだろうか? より正確には、努力して成果を出してるのにそれを認めようとしない状態、と言うべきか。
こういう状況を嘆いているのならば、それは理解できる。働きに見合った報酬がないのならば仕事をする気にもならない。そういう意味では格差というのは必要なものであろう。
これを否定し、努力と成果を認めない社会というのは、結果を同じにする平等社会ではないだろうか。
あるいは、成果固定社会というべきだ。
左翼思想というのは、今のところ成果固定社会を造りあげてきた。そこは働かない者にとってはパラダイスだが、働き者にとっては地獄である。その結果がどうなったかについては、資本主義社会と共産主義社会を見比べればよいだろう。統一する前の東西ドイツ、現在の南北朝鮮も良い例になる。
これを見て左翼思想が良いと思う者がどれだけいるだろうか? これは独裁体制が悪いのであって、左翼思想が悪いわけではない、という聞き飽きた言葉には「独裁者を産んできたのが左翼思想ではないか」と述べるしかない。
結局、左翼思想を俺が選ばなかったのは、人の努力を無にする、努力する人を認めない、という一点につきる。
ちなみに。
特に才能も努力もしてないごく普通の人でも、格差社会(競争社会)の中にはちゃんと居場所がある。世の中を引っ張っていくのは天才かもしれないが、それを支えるのは普通の人々である。
世の中は偏差値50前後の人が一番多いのだ。その中で偏差値51程度の努力をしていればそれでよい。少なくともごく普通に生きていける。
しかし人間というのは面白い者で、自分の出来ることをちゃんとやっていくと能力が伸びていく。無理して出来ない事に挑戦する必要はない。そういう事は天才や勇者という人種がやってくれる。彼らは世のため人のために骨身を惜しまない。そういう存在だ。全ての人間がそういうものでないのは、誰もが納得しているだろう。難しいことはそういう方々にまかせておきなさい。そういう人達はより大きな報酬を得るだろうが、それに到るまでの苦難は常人には耐えられない。
世の中というのはそういうものだろう。
と、愚考を述べてみた。