2007年01月27日

適当なこと184

 インターネットにおける2ちゃんねる問題。
 その横暴さを下記のサイトでは「インターネットの北朝鮮」と述べている。この指摘は実に正しい、と言いたい。



2ちゃんねる から子供たちを守ろう!



 とはいえ北朝鮮という言葉が本質をついているかと言えば「NO」と言わざるをえない。
 これは一人の親さんが間違ってるというわけではない。もう少し踏み込んでもらいたい、という事である。
 なぜならば、2ちゃんねるとは北朝鮮という一国のみを表した存在ではないからだ。
 2ちゃんねるとは、ヒットラーのナチスドイツやレーニンのソ連、毛沢東の中国などに見られる全体主義体制、独裁国家である。
 北朝鮮というのは非常に分かりやすい例えなのだが、更に掘り下げればこうも言える。


「2ちゃんねるこそが独裁国家・左翼体制を具現化したものである」と。


 俺には、どう見ても2ちゃんねるがそういうものにしか思えない。
 その思いを少しでも今回は述べていきたい。




 まず、左翼というのがどんなもんであるのか、ということだ。
 連中の述べる主張というのはじつに素晴らしいものである。
「富や資産を独占するな」
「国民の幸せを考えろ」
「一部の特権階級を許すな」
などである。
 それだけ聞いていれば何か正しいことを言ってるような気になってくる。
 が、そんな左翼連中が政権を握ったらどうなったのか。
 俺の知る限り最古の左翼革命であるフランス革命や、最も有名(と思われる)なロシア革命を振り返ってみたい。
 そこで行われたのは、


・政治権力を握った連中による地位や富の独占
・地位の二極化
・反対勢力の抹殺・虐殺
・政治権力(=国家)の許可を得ない限り何もできない


という事態である。
 これらは全て左翼が否定したものである。左翼が断固として粉砕しようとしたものである。
 にも関わらず、結果は粉砕したものがより強固になって出現していく事になる。
 左翼は、自分達以外に力を持った者が出るのを認めず、他人の意見を聞かず、自分達に従わない者を赦しはしない。
 自分達の思い通りにならない全てを破壊し、自分達に奴隷のようにかしずく者のみを認める。
 残念なことに様々な地域で行われた革命や民主化などはこういった事態を引き起こしている。
 俺が知る唯一の例外はアメリカだけである。


 こういった事実を見ていると、左翼というのが主張する様々なかけ声(スローガン)があやしくなってくる。耳に聞こえのいいことを言ってるが、本当にそれを信じて良いのか? と思いたくなる。



 インターネットにおいてそれを体現したのが2ちゃんねるであった。


 2ちゃんねるとはどんなものだったのか?
 下記のブログなどで述べられてる事を参考に考えて見たい。

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!


 ここに書かれている事が正しいかどうかは分からない。
 しかし、ここに書かれている事の大半が正しいと思う。少なくとも「当たらずと言えど遠からず」という範囲にはおさまってるだろう。
 2ちゃんねるのとった行動は次のようなものになる。


1、参加自由という空間の提供

2、同様なサイトへの工作員投入による破壊

3、競合相手を潰すことで、ネット内における唯一の存在となる

4、人を集めることで宣伝能力を強化

5、後発の同様サイトへの破壊工作

6、ネットでの独占的な地位の確立



 といったところだろうか。
 独占というところに注目してもらいたい。
 本当に自由にサイトが作れるような状況ならば、こんな風にはならなかったはずだ。
 にもかかわらず、自由にものが言える(という触れ込みの)場所は2ちゃんねるだけに限定されている。
 なぜか?
 こんな風になる理由は至って簡単で、他の競合相手を潰しまわったからである。
 その為に様々な手段をとったのだろう。ネットにおける罵倒・暴言行為である「荒らし行為」などがそれである。普通の人間にはたえられないようなこういった事を平気でやる人間というのはまず存在しない。それを行うのは、それをやるだけの利益があるからに他ならない。
 荒らし行為が行われれば、普通の利用者は嫌気がさす。たとえ管理人に落ち度がなくても、足が遠ざかる。そうやって閑散としていけば、いずれは管理人のやる気もなくなり、サイトは潰れる。
 その結果、比較的マトモ(と思わせられた)2ちゃんねるに足が向くようになる。
 2ちゃんねるでは2ちゃんねるにたてつかない限りあまり酷い目にはあわない。
 逆に2ちゃんねるに歯向かえばどうなるのか?
 書き込みによりIPが判明し、それをたぐって書き込んだ人間の個人情報が簿迂路される。その結果2ちゃんねるを非難した人間は社会的に抹殺される。


 ここから見えてくる2ちゃんねるの戦略は実に単純である。
 だが、非常に有効な手段である。


・敵戦力の分散・弱小化

・弱小化による各個撃破



 古くから使われてきた戦争のやり方、侵略のやり方である。
 2ちゃんねるはそれに実に忠実だ。
 また、非常に汚いやり方をしてくる。


・自分への反論・意見は認めない

・相手が全部悪いと言い張る



 ガキのケンカと同じで、そこに理性も理屈もない。
「自分が良ければそれでいい」という実に我が儘な考えが見えてくる。
 では、2ちゃんねるの我が儘とはどんなものなのか?
 気が付いたところ部分だけでもあげてみたい。


・「ネットは自由な空間である」
→しかし、2ちゃねる以外の同じ様なサイトを作るのは許さない

・「発言するのは自由である」
→しかし、2ちゃんねる以外での発言は認めない

・「例え批判的な意見であっても、それを消すのはよくない」
→しかし、2ちゃんねるへの批判は荒らしが送り込まれる


 実に一方的である。
 2ちゃんねるには免罪符が渡されてるとでも言うのだろうか?




 こうなってくると2ちゃんねるというのは一種の特権階級であり、批判するのも文句を言うのも許されない。
 一言でもそんな事を言えばすぐに逮捕・投獄・強制労働送りになる左翼体制となんや変わらない。
 まさに「ネット世界の北朝鮮」である。
 次のように言葉を置き換えれば簡単に説明出来るのだろうか?


・ひろゆき=金正日

・運営部=共産党(労働党だっけ)

・工作員=スパイ、諜報員

・2ちゃんの荒らし共=軍隊

・その他の2ちゃん利用者
=こんな国家を(どんな理由がある)承認している民衆



 注目して貰いたいのは、一番下の「民衆」である。
 どんな独裁国家と言えども、それを認めている民衆なくしては存在しない。
 連中は「これは何か間違ってる」と思っていても、「しかし他に行くところがない」などの理由で現状を受け入れている。民衆や大衆というのはいつの時代でもそんなもんである。
 例外的な一部の人間は「ならば他に自分達の場所を作ろう」とするが、すぐに2ちゃんねるに潰される。それを見て民衆(2ちゃんの利用者)はますます自分でやる気をなくしていく。
 素晴らしい悪循環である。



 こういった体制が滅亡するのは大きく分けて二つ。


・制度そのものがいびつなので長期間存続できない。
 数十年もすれば滅亡か制度改革が必要になるので、それまでまつ。
(ソ連や中国がこれにあたる)


・外部に同等の組織なり集団があるならばそちらに逃げ込む事ができる。
 そちらを強化して独裁体制の衰退をさそう。
(東ドイツ・北朝鮮からの国外逃亡がこれにあたる)



 本来ならばここに第三の手段として、


・より巨大な力でもって叩きつぶす


 というのも加えたいところである。


 さて、上記のような滅亡が待ってるのはここ数十年の歴史をちょっと振り返れば分かることである。
 同様に対抗手段も過去の事例から拾い集める事が出来る。
 こういった独裁体制がどうやって滅んだのか。
 その道筋を見ればとるべき手段は分かってくる。
 それらをまとめると次のようになるだろうか。

 
1、反対派同士が結集すること

2、競合相手となるような場所を創り出す

3、敵勢力の人間を絶対に入れない



 敵が恐れるのは反対派が終結して力を持つことである。
 だからこそ、目が小さなうちに潰そうとする。
 そういった圧力に対してこちらがどれだけ対抗できるかである。


 残念ながら現時点で2ちゃんねる以上の集客力をもつところは存在しない。
 MIXIをはじめとしたSNSがそうなるかもしれないが、現時点ではどうかな、というところである。



 ただ、手をこまねいているだけでは状況は進まない。
 世の中というのは、勝手に進歩前進するものではない。当たり前だが、自分で行動しない限り、成果を積み重ねない限りなにも動きはしないし変わらない。
 とりあえず手の出せる範囲で何かをやっていこう。


 一番良いのは2ちゃんねるのような掲示板をつくることなのだろうが、残念ながらすぐに荒らしが飛んでくる。
 コメントの承認制も、数多くの人が集まる場所では不便極まる。
 可能な限り多くの人が集まり、なおかつ自由に使える場所、となると難しくなる。
 前のエントリーでその打開策になれば、と思ってブログのパスワード機能などを紹介したが、これも浸透するまで時間がかかるだろう。効果があるのかどうかも現時点ではまだ判明してない。


・参考までにもう一度掲載しておきます。

「気ままにつれづれ/特定会員様限定空間(仮)」
http://cvznahtadakja.seesaa.net/

ユーザー名 :angakangads

パスワード :gannnewqna



 こういった形でSNS的な空間を広げて行ければ、と思ってるが前途は多難だろう。
 ただ、それでも独裁体制に対抗するにはこういった場所が必要だとも思える。
 何より「人が集まる」という効果が大きい。



 2ちゃんねるがしぶとく生き残ってるのは「利用者が多い」という事に目を付けてる企業が多いからである。
 どれほど被害が出ていようとも、金になるならば企業も無下に着るわけにはいかないのが2ちゃんねるであろう。
 このシーサーブログにも様々なアフィリエイトが張り付けられている。投稿管理画面にもあるくらいだ。正直笑ってしまうのだが、企業というのはそういうものだろう。それが悪いとは何一つ思わない(これを攻撃するのが社会主義者や共産主義者である。そいつらの叫び声に騙された結果は、それこそ北朝鮮やソ連・中国を見てくれれば良いだろう)。
 という事は、利用者の多い空間を他に作ればよい、という事になる。
 生半可な事では出来ないが、やるしかない。
 それが出来なければ、いつまでたっても「声を張り上げるだけ」の活動になってしまうだろう。
 声を出すことは悪いことではないが、それだけで世の中が動くと思うのは少々甘い。


 とりあえず独自のドメインをとったり、個人サーバーをたてる、とまではやらないにしても、今現在各社が提供しているサービスを利用して、出来ることはめいいっぱいやろう。
 それがどこまで効果あるかは分からないが、何もしないよりはましであろう。
 その中から反省点や成功が見えてくるかも知れない。


 あまり解決策にもならない事を述べてきたが、何かの一考になれば幸いである。
posted by つれづれなるまま・・・・に? at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月19日

適当なこと183

**最初に**


 本来ならばもっと早くエントリーとして掲載したいと思っていたのだが、どうにもネットに接続できずにずるずると今日まで来てしまった。
 なんで、書いてある内容が現在とずれてるところもあると思います。
 どうかご勘弁を。

**以上、言い訳でした**




 2ちゃんねるが閉鎖になりそうです。
 詳しくは下のバナーをクリックして確認して見て下さい。


2ちゃんねる から子供たちを守ろう!


 該当記事はこれです。


「いよいよ2ちゃんねる崩壊へ!」
http://anti2ch.blog61.fc2.com/blog-entry-230.html#more


「『2ちゃんねる崩壊』報道の裏には何が?」
http://anti2ch.blog61.fc2.com/blog-entry-231.html#more


 これでネットから誹謗・罵倒が消えるというわけではないが、そういう事をする連中が屯する場所が消えるのは確かである。
 もっとも、西村は再び2ちゃんねるを作るだろうし、同じ様な「書き込み自由の無法地帯」をつくろうとする連中は出てくるだろう。
 だが、それでも2ちゃんねる崩壊は確実にネットから多くの罵倒・暴言を減少させるものと考える。
 なぜか?


 罵倒・暴言をいくらしてもよい、という無意味な自信が崩壊するからだ。


 人間というのは、良くも悪くも自信がないと何もできない。
 自信という言葉を、勇気ややる気、と置き換えてもよい。
 あるいは覚悟と言っても良い。
 ようは、「何が何でもやる」という気力だ。これがないと、どれだけ能力が有ろうとも技術があろうとも、人間は何もしない。
 反対に、やる気が有れば結果を気にせず行動をはじめる。
 人間というのは面白いもんである。
 もっと面白い事に、失敗を繰り返しながらも行動をしていくと、やがて成功に至ることがある、ということか。これは「失敗を反省し、二度と失敗しないようにしていく。成功するために改善を施していく」ことを絶えず繰り返すことで為されるのだが、それを繰り返していくのも「自信」である。


 ネットでの罵倒・暴言(これらは「荒らし」という言葉で表される。「悪口」と素直に言わないところに欺瞞性がある)が放置されてきたのも、こういうコトする連中がやたらと強気だったのも、「2ちゃんねるのような大きな存在があるのに、政府を始めとした誰もが手を出せずにいる」という事に寄りかかっていたことにあると思う。
 だが、それが今回一気に粉砕された。
「ネットであろうとも、悪事を働けば(言葉による暴力、つまり「悪口」の類であろうとも)決して許されることはない」
という良い前例をうち立てた。
 2ちゃんねる閉鎖というのはそういう意味を持つ。
 面白いことに、これを成し遂げたのも、一人の人間の覚悟である。


 詳しくは「2ちゃんねる から子供達を守ろう」のエントリーを参照してもらいたいのだが、今回の2ちゃんねる差し押さえが出来たのは、2ちゃんねる被害者の方の一人が、泣き寝入りすることなく、ネットでの暴言に負けることなく、傷口を拡大することを恐れず、「絶対に罪を償って貰う」「悪事を働いたことと、それを放置したことへの罰を受けて貰う」という強い気迫・新年があったればこそである。
 被害に遭われたその方に対しては同情を禁じ得ないが、彼のような人物がいなければ2ちゃんねる閉鎖という事態が現実味を帯びることも無かっただろう。
 こういう覚悟を持った人物を勇者というのであろう。
 勇者とは、特別な能力をもった存在ではない。王家の人間だとか、優れた神官だとか、教養のある人物、というわけではない。
 勇者とは、やらねばならない事を実行する人物の事を言う。
 やらねばならない事というのが、人を不幸にすることを撲滅することや、人が幸せに生きていけるようにすることであるのは言うまでもない。こんな事を書くのは「やるべき事ってなんだよ」というネットにおけるふざけた揚げ足取り’いわゆる荒らし行為)の為である。また、そんな事をするような空間だったのがネットである。
 それが覆った。少なくとも覆す勇気を与えてくれた事に感謝したい。


 とりあえず2ちゃんねる崩壊への序曲。あるいは助走が始まった。
 めでたい事である。
 今後は2ちゃんねるを根拠としたふざけた行動は少なくなるだろう。個人的に頑張る連中は残るだろうが、今までのように大多数を根拠としてきた横暴は少なくなるのではないか、と思いたい。






 とはいえ、これで問題が解決するわけではない。
 俺はあえてこう言いたい。


「2ちゃんねる崩壊による、言論の統制・官僚機構やマスコミによる独占の開始」


 あえてこれが始まると断言しておきたい。
 なぜならば、これまでの2ちゃんねる批判がそのままこれに繋がるからだ。
 その一例として非常に印象的なのだが、これである。
「ネット利用の免許制度」
 このような考えが出てくる事に驚きを隠せない。
 というのも、これは「ネット利用者の制限」に他ならない。
 免許制度ということは、免許を発行する存在がいて、こいつがネットにおける言論を統制する事になる。
 それは2ちゃんねる以上の統制と独占を実行するだろう。
 静かに。
 確実に。


 まず、免許を発行するのが誰なのか、という事である。
 それが各インターネット企業(プロバイダー)であるならば問題ない。
 好ましからざる利用者と判断されて一つのプロバイダーから利用停止処分を受けても、別のプロバイダーに乗り換えれば済むことである。
 全部のプロバイダーが拒否するほどの問題人物であるならばともかく、まともな事を言ってるならば全部のプロバイダーから排除されることはまずあり得ない。
 しかし、もしも国家などがネットを管理する、と言い題したらどうなるか。
 それは、「ネット活動は政府の手によって左右される」という事に繋がるだろう。
 少なくとも政府への敵対的な書き込みは全て削除される。
 それも書き込みを制限される、というレベルではない。そんな事をせずに、サイトを全部削除してしまい、そんなサイトを使っていた人物に今後二度とネットにアクセスできないようにするだろう。
 免許制度というのはそういう事である。


 これは2ちゃんねるに屯してる連中の暴言・罵倒よりもはるかに酷い措置である。
 こういった措置に対しては、コメント削除・書き込み禁止・承認制によるコメント制限をとれば多少は対応できる。
 また、警察がしっかりと対応してくれるならば、ふざけた書き込みをした者を逮捕する事もできるはずだ。
 いわば、各個人で有る程度対応できるのが、暴言・罵倒というものだった。
 だが免許制度とそれに伴う強健の発動は、個人や権限を持たない集団の暴行など足下にも及ばない横暴さを持つ。何せサイトを自分で持つ権利などを根こそぎ奪われるのだから。
 強烈な言い方をするならば、これは国外追放と同様な措置、と言っても良いだろう。


 恐ろしいことに、こういった免許制度は、そのうちプロバイダーまで拘束する、ということである。


 個人を対象にした免許制度であっても、ネット利用者が免許を発行する者達の制限をうけるならば、否応なしにプロバイダーもそれにならうことになる。
 プロバイダーは結局ネット利用者によって維持・運営されている。
 プロバイダーの活動は、利用者の料金によって成り立つ。
 であるならば、利用者の減少は企業活動の衰退・崩壊を招くのは当然である。現状維持ですら苦しくなるだろう。最悪の場合、倒産すらあり得る。
 それを避けるためには利用者の確保が必要となる。
 確保するためには免許制度に反する行動は出来ない。
 お分かりだろうか。
 免許制度というのは、利用者を縛り、利用者を必要とする企業をも縛る。
 免許制度というのは、ネットの独占に他ならない。


 企業活動が不可能ならば、政府が新しい行政機関を作ればよい。
 行政機関が問題ならば、企業に補助金を出せばよい。
 そんな馬鹿な事をいうアホもいるかもしれない。
 だが、それは「企業の国有化」でしかない。
 企業の国有化というのは、「新しい政府機関をつくる」事である。
 こうも言える「国家が企業を摂取する」。・・・・・いや、「窃取する」といった方がよい。


 補助金を出すと言うことは、そのための条件を出すということである。
 条件とは、「これに従わない限り、金は出さない」という事である。
 お分かりだろうか。
 結局政府なり免許を出す者達の言いなりになるのだ。


 以上の話はすべて「免許を国家が発行する」という前提に成り立っている。
 誤解してはいけないのは、国家がやってるから問題なのではない。また、国家と関係ない別の団体が免許を発行するのが問題なのでもない。
 この免許制度の問題点はただ一つ。


たった一つの存在が許可権を持つ。


 つまり、
 国家であろうと、
 2ちゃんねるであろうと、
 民間団体であろうと、
 企業が連合してつくる団体であろうと、
 たった一つの団体が免許を発行するのが大問題なのである。
 たった一つの団体(あるいは個人)などがある一つの行動への許可や認可を決定する。それが実行されるときには、否応なしに権力が付け加えられる。あるいは、否応なしに権力が発生する。
 独占にはそういった力があるのだ。


 今までのインターネット環境がそれを物語っている。
 超大型掲示板2ちゃんねる。
 これ以上の存在が無かったから、これに対抗できるほどの大きな存在が無かったから誰も対抗できなかった。
 少しでも成長する可能性のあるネット上の集まりがあれば、すぐさま2ちゃんねるの工作員が投入されて潰された。
 あるいは自覚無き協力者達が、2ちゃんねる以外の存在を潰していた可能性もある。
 工作員と協力者。この違いを明確にするのは難しいが、とりあえず以下のように考えていただきたい。


・工作員:
 明確な命令を受けて行動している者達。

・協力者:
 命令や指示は受けてないが、自分の信じてるもののために行動している者達。


 技術の優劣も確かにあるが、この両者を明確に分けてるものはこのようなものであろう。
 誰かの命令を受けて行動しているか、自分で勝手に行動するか。
 ただ、どちらも「所属団体が有利になること」のために頑張る、というは共通している。
 2ちゃんねるに工作員がいるかどうかは分からない。俺は「いる」と思ってるが確証はない。しかし、あれだけ大きなサイトが日本に一つしかない、というのは奇妙なもんである。
 また、ネット利用者の大半が利用しているのも不可解である。よほど優れた機能がなければそういった事態がおこると考えるのは難しい。
 おそらく、競争相手になりそうな他のサイトを根こそぎ潰してきたのではないだろうか。
 そして事実上の独占状態を創り出していたのではないだろうか。
 こうなってしまうと、対抗していくのが難しい。
 ご存じのように、2ちゃんねるへの対抗的なサイトがあらわれると、工作員や協力者が雪崩のように押し寄せる。この勢いというのは恐ろしいもので、人間の良心や常識・良識を根こそぎ破壊する。例え押し寄せる方が間違っていても、暴言を吐くのが悪いことだと知っていても、勢いのある方に味方するのが人間というものである。
 2ちゃんねるが圧倒的な多数派である、という印象をつくるだけでもよい。
 それで2ちゃんねるは安泰だった。


 それと同じ事が、免許制度という形で実行されれば、その惨禍は2ちゃんねるの比ではない。
 インターネット全体をネット免許発行者が独占する。
 そんな事態は絶対に避けねばならない。


 思うに2ちゃんねるは免許制度のための、そしてメディア独占のための第一段階だったのではないだろうか?
 インターネットは地球上を結ぶほどに拡張され、そこでは政府や特定団体の意志や意図を無視して様々な情報が流されている。
 その善し悪しは様々であるが、これによって情報の独占・世論の操作がしにくくなったのは確かである。
 例えば朝日新聞のようなメディアがそれである。
 誰もが「朝日新聞は日本の悪口しかいってない」と思っていても、それを口にする事はなかった。だから表に出なかった。
 出したとしても、それは侮蔑をもって返された。「天下の朝日新聞に何をいってるんだ」と。
 なぜならば皆が無意識のうちに「朝日新聞は正しい」と思っていたからである。
 だから本心では「俺もおかしいと思ってる」場合でも、「朝日新聞は正しい」という大多数派からの仲間外れが怖くて口に出せないでいた。
 しかし、ネットという思ってることを述べる空間が出来たことで、これが覆った。
「俺はおかしいと思う」
「え、あんたもそう思ってたの? 俺もだよ」
「実は俺もなんだ」
「あれ、みんなそう思ってたんだ。俺だけじゃなかったんだ」
「え、あんたもかよ」
 というような事があったのではないだろうか。
 それらが匿名のもとにおこなわれていたにしても、いや、匿名だからこそこうした本音が出てきたのだろう。
 匿名性の善し悪しである。
 ちなみに俺は匿名性が悪いとは思ってない。この辺りを誤解してる人がいるかもしれんが。
 こうした事で不都合なのは、マスコミだった連中だろう。
 情報を発信するという特権、情報の独占をしてきた各メディア・報道機関・報道企業にとって、インターネットは敵であったと思われる。
 これを封じる手段を誰もが望んでいたと思われる。
 免許制度はそのために有効なのだが、自由な空間を手放したいと思う者はまずいない。
 そこで自由を無法地帯という印象をつくりあげるために、無法地帯2ちゃんねるが作られたのではないだろうか?


 言っておくが、自由とは無法地帯という事ではない。


 自由とは、誰にも侵されず・誰をも侵さないという事であろう。
 何をしてもよい、という言葉には「悪いこと以外ならば」という前提がある。
 他人に損害を与える、他人を侮辱するというのは、自由の大前提を無視している。
 多くの人が「自由=無法」と思ってるようなので、その勘違いだけは大いに反省してもらおう。
 自由とは道徳や常識、人としてわきまえる常識、自分も他人も大切にするというような事を前提にしないと発生しない。どれが欠けてもいけない。
 また、こうした自由を守り保っていこうと考え、なおかつ努力していかねばすぐにでも無くなる。
 こうした前提条件を、人は「徳」と言ってきたのだろう。あるいは「義務」と言ってもよいかもしれない。
 自由と徳は不可分である。
 自由の無い徳は、強制や教養の道具となる。
 徳のない自由は、力を持つ者が支配者となる無法地帯となる。



2ちゃんねるはネットに無法地帯を創り出した。


 そのおかげで自由だけが攻撃され、徳だけが残っていく。この場合、徳と言うよりは義務と言った方がよいだろう。
 そして義務とは名ばかりのルールの押しつけが始まる。
 従わないものに罰を与えることに何の躊躇いもない。
 規律から外れた者には精査を加える。
 おもしろいものである。それは2ちゃんねるによるネットの独占と全く変わらない状態である。潰せる分だけ2ちゃんねるの方がましだった、という状況にもなりかねない。


 2ちゃんねるの問題点は、無法地帯をネットに創り出したことである。
 彼らはそれによって「力のある者による独占地帯」をネットに創り出した。
 ネットにおける力とは、「屁理屈と暴言」である。
 古今東西、人が人として守ってきた規律、どの地域どの民族どんな宗教であっても、何故か共通してもっていたルール。
 傷つけてはいけない
 殺してはいけない
 騙してはいけない
 ぬすんではいけない

 そういった全人類に共通したルール、どんな小さな集団でも、どれほど大きな国家であろうとも必ず存在していたそういった最低限の約束事。洋の東西を問わず、時代の区分を超越して存在していた約束事。
 法律や教義がない頃から存在していたはずの、そんなものが登場する以前から人が守ってきた取り決め。
 それを破壊したのが2ちゃんねるであった。
 そして、そんな2ちゃんねるの「無法地帯」としての性格と、無法地帯であるが故にのさばる「力を持つ者が正しい」という横暴さ。
 2ちゃんねるの管理人西村の言葉が全てを表している。
「取り締まりたければ法律をつくれ」
 これこそ正しく法治国家を表している。
 法律に規定されてなければなにをやってもよい。書いてない事は何をしても良い。残念ながら法治国家の法治とはそういうもんである。
 そして、これこそが無法性の象徴である。力を持つ者が長になる野蛮な未開人の発想である。
 真っ当な人間ならば、正しく文明化された社会であるならば、こんな台詞は出てこない。誰もが次のような事を考えるだろう。
「法律や宗教の教典に書いてあることがどうであろうとも、人として守らなければならないことがある」
「たとえ何も書いて無くても、誰かが創り出してなくても、守るべき約束事というのはある」

 そうした考えがここにはない。
 法律で決めた事が正しい、なんてことがないのは百も承知だが、法律があろうがなかろうが守るべきものがある、という考えがどこにもない。
 無法の最たるもんだろう。


 その結果かどうか分からないが、「では法律で規定しよう」という事になれば、喜ぶのは統制する側である。
 今まで特権を振りかざしていた連中が再び特権を取り戻せた、と喜ぶだろう。
 しかし、もし2ちゃんねるのような無法地帯を野放しにしない、というのであれば、免許制度ではなく各プロバイダーへの働きかけであろう。
 良い例がブログサービスである。
 荒らし行為への対処法として、承認制のあるブログに引っ越すというのがある。これにより、承認制を設置してないブログサービスが廃れる事になる。
 実はkomichiさんの旧ブログを見てきずいたんだが、オートページのブログが承認制サービスを開始しているのに気付いた。俺がブログを始めるときに確かめた時にはなかったはずなのだが、どうやら始めたらしい。めでたい事である。
 また、あまりにも目に余る行為を実行したならば、ブログの提供を凍結する、という事もある。これはfc2ブログが反日ブログ監視所を、規約違反やユーザーへの迷惑行為を理由に凍結したことによる。これは反日ブログ監視所にとってみれば自由の制限であろうが、他の多くのユーザーからすれば自由の獲得である。
 こういった措置は常に後手後手にまわるのが常であるが、それでも俺は免許制度よりは各プロバイダー(企業)が自分の所のユーザーを管理する方がよっぽどましだと思う。
 プロバイダーがどれほど強健を発動しても、ネット全てに影響を及ぼせるわけがないからである。
 少なくとも国全体に影響を及ぼすことはない。競合他社がいるかぎりは。
 免許制度はネット全体に影響を及ぼさなくても、国全体には影響を及ぼす。
 良い例が中国のインターネット環境であろう。あそこは常に国家の監視下におかているし、国家に都合の悪いサイトは存在しない。それどころか国家に都合の良いサイトが多数であると聞く。
 免許制度、という訳ではないだろうが、特定の誰かが許可や認可の権限を持つというのがどういう事かは、そういう事例を見れば分かるだろう。


 インターネットにおける自由な発言を求める人は大勢いる、と思う。数えたわけではないから正確な所は分からないが、でも大勢居ると思う。
 しかし、そういった方々が「免許制度を」と言ってるのには矛盾を感じる。
 免許制度は否応なく「免許を発行する連中による独占」をつくりだす。
 それは2ちゃんねるによるネット支配より酷い言論弾圧をを創り出す。
 いや、弾圧なんてかわいいものではない。
 そもそも発言の機会すら与えられることなく黙殺されるのだ。そんな状態を引き起こしたいのだろうか?


 ただ、無法地帯を創り出すことには俺も反対である。
 ネットユーザーの全てが良識有る方々ならばこんな心配する必要はないのだが、そうでもないのが現状だ。
 この状態に対抗するには、やはりmixiのようなある程度の閉鎖性は必要だとおもう。
 ただし、それは各企業・プロバイダーが行うべきもので、国家などが集中的に管理するものではない。それは否応なしに管理者の権限の増大をもたらす。
 これを避けようとすれば、それは放任体制にはいるしかなく、それは2ちゃんねるのようなものをネット全体に拡大することを意味する。
 そんな事態だけはごめんだ。


 それよりは2ちゃんねるのような場所がたくさんあったほうがいいように思える。競合他社の存在がなかった事が2ちゃんねるの肥大化を生み出し、悪事・罵倒をのさばらせた。
 それによって無法地帯になったから、今度はガチガチに規制した空間をつくりだし、言論統制と弾圧を別の形で行えるようにする、というのだろうか。
 そして統制に嫌気がさして、今度は自由放任と言う名の無法地帯へと逆戻りして、再び2ちゃんねるを創り出す。
 そんな事の繰り返しをしていくのだろうか。
 冗談ではない。
 そんな事をするよりは、mixiのような会員制の空間を作りだしていったほうがはるかにましである。
 そして、それは現在のブログサービスでも十分可能である。
 パスワードによる限定した者達への閲覧可能状態にしておくことで、馬鹿な書き込みを排除していけばよい。
 また、ブログは一つだけという規制があるわけでもない。
 表に出しておくべき看板としてのブログと、限定した相手と会話を楽しむ場所との二つを用意すればそれで済む。表に出しておく看板のブログやサイトでは、コメント承認制などで対処しておけばよろしい。
 そうやって付き合う相手を限定していって、暴言・罵倒を書き込む連中を排除していくほうがよい、と俺は考える。それを誰もがやりはじめれば、暴言を吐く連中をネットの片隅においやれるのではないか、と考えている。
 実際にそれをやるにはかなりの時間と労力を必要とするが、免許制度という独占・統制よりはましだ。
 というわけで次のようなブログを作ってみた。


「気ままにつれづれ/特定会員様限定空間(仮)」
http://cvznahtadakja.seesaa.net/

ユーザー名 :angakangads

パスワード :gannnewqna



会員限定、というのは冗談だが、こういうやり方もある、という事を伝えたくてこんなものこさえてみた。


 簡単にこういう事ができるのに、「法整備を」「規制を」「免許制にしよう」というのはいただけない。
 まず、好ましからざる連中を遮断する事を各自でやっていけばよい。
 2ちゃんねるの非道ぶりを排除するために、また、そういう所を作っても意味がない、ということを徹底するために、まず各自が出来る事をやっていくのがよいのではないだろうか。



 2ちゃんねるがのさばった理由は、自由に書き込める場所を2ちゃんねるが潰して回ったからだろう。そうとしか考えられない。でなければ、似たような掲示板が乱立していたはずだ(統廃合や相互リンクなどであるていど棲み分けが為されていたとは思うが)。
 それがそうならなかったのは、鬱陶しい2ちゃんねるの連中があちこちを荒らして回ったからだろう。
 そんな連中に「自由」の御旗を使って欲しくはない。
 自由とは「自分も他人も侵さない」ことを条件の一つとする。
 横暴に布津舞うことを自由とは言わない。
 そんな連中を排除していく事も、今後のネットの課題だろう。
 そのため出来る事は結構あると思う。
 法律による規制も手段かもしれないが、俺はそれにあえて反対の立場をとりたい。


 俺は絶対に免許制度に反対する。
 そんな事をすれば、全ての人間が免許発行者の意図に従わざるを得ない。
 それは、現在の2ちゃんねる以上の横暴を認めることに繋がると確信するが故である。


 
posted by つれづれなるまま・・・・に? at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月08日

適当なこと182

 あいも変わらず自分が絶対正しいとでも思って行動しておられる方がおる。
 そういうのは左翼でも任せておけば良いのだが、どうもそういうことが出来ないらしい。
 問題なのは、そういう左翼みたいな事をしてる人が、アンチ左翼の立場をとっているというところだろうか。
 何のギャグですか、と問いただしたいところだ。


 で、そんな政治的主張を為されている御方であるが、その御方のブログには政治とは全く関係ないふざけたエントリーが並んでいる。
 以下がそれ。

・「市バスの後車ボタンは無線」?
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-95.html

・それで反論したつもりか?
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-97.html

・バナーはバーナーとは違うぜ同盟
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-114.html


 まったくどうしようもない。
 一体何を考えているのだろうか。
 どうも反日ブログ監視所というのは、反日的な発言をするブログの反日的な部分を攻撃するのではなく、反日の烙印を押した相手をとことんイヂメ手楽しむのが目的らしい。
 やってる本人は違うと大声でわめくだろうが、そんなことを本人が言ったところで何の説得力もない。
 犯罪者が「俺はやってない」と言うのと同じだ。



 そんな方の最新エントリーがこれである。

・美爾依さん観察日記避難所
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-123.html

 全文は最後に掲載するとして、このエントリーから浮かび上がってくる問題点を俺の視点で見ていってみよう。



>しかし、自分の記事に対抗する言論を他のプロバイダのブログで展開しても、わざわざ削除要請されては一体どうやって言論の自由が守られるのだろうか?


 言ってることは正しい。全くその通りである。
 反対意見を封殺してどうするのか、と言うところだ。
 問題なのは、これを言ってるのが反日ブログ監視所であることだ。


 ご存じのとおり反日ブログ監視所は、反日発言や反日ブログを掣肘し、日本を保守しようというブログではない。
 政治的な意見への掣肘ではなく、個人攻撃が目的のブログである。
 その理由は、このエントリー冒頭に掲げた三つのエントリーが証拠である。これらのエントリーのどこに政治性があるというのだろうか?
 ごく些細な間違い、あるいは勘違いを取り上げて声を大にして笑い、大いにバカにしている。
 そんな事をしている奴の言ってる事など、
「政治問題にかこつけた暴言・罵倒のたぐいだろう」
と思われても仕方ない。
 他人をどうこう言う前に、まず反日ブログ監視所が自分の姿勢をただすべきであろう。
 削除要請されたのも、その辺りが原因である。
 なお、反日ブログ監視所初代は次のような処罰を受けている。


http://blog.fc2.com/forbidden.htmlより

このブログは下記の理由などにより凍結されています。
・規約上の違反があった。
・多数のユーザーに迷惑をかける行為を行った。


 こういった措置をとられるようなブログの主催者だった篠原静流。
 そのエントリーを掲載している二代目の反日ブログ監視所。
 そんな所のエントリーが、「規約違反のエントリーを掲げ」て、「多数のユーザーに迷惑をかけてる」と思われてもしかたない。
 また、そうい行為を今も続行していると思われても無理はない。
 それ故に、まともに見える反対意見も「どうぜ次の暴言につなげるための布石だろう」と判断されても当たり前と言うべきだ。


>「それらのコメントが管理人に削除されたり非承認にされたとしても、それは言論の弾圧ではない。なぜなら言いたいことがあるならいくらでも無料のブログサービスがあるから、自分でブログを持って、そこに書けるから」である。

>※ここで誤解のないよういただきたいのは、管理人の削除・非承認それ自体が問題なのではないということだ。「自分のブログはサヨクの(あるいは右翼の)立場から書いているので、政治的に反対の立場のコメントはするな」と書かれているなら話は別であるということ。



 はて。
 なんで承認や削除が政治的立場と結びつくのか。
 承認・削除が問題でないならば、一々そんなことを持ち出すな。


 この連中は相変わらず「相手の削除・承認を否定する」という態度を崩していない。
 あらゆる理由を付けて、削除・承認制を突き崩そうとしている。だから騙されてはいけない。
 政治的な立場を明確にしろ、というのは、「削除基準・承認基準を明確にしろ」と同じである。この次に来るのは、「あんたの削除・承認基準と俺の意見の何処が食い違うんだ」という文句である。
 つまりは、「コメントやトラックバックしている俺達の考えを優先しろ」「俺達の許可も取らずに削除すんな、承認せずに黙殺するな」ということである。
 自分の政治主張を絶対視し、相手の政治主張などを粉砕することを目的とする左翼と何一つ変わらない。



 また、篠原にはもう一つの目的があるようだ。

>なぜなら、それが目立つところに書かれていれば、訪問者は「ははーん、これはサヨクの主張というものか、と理解できるからだ。ネットサヨクのブログに遺憾を感じるものは、あたかもそれが一般的な主張であるかのごとく装っていることで善意の訪問者へ誤解を与えること(これ自体がデマなのである)を憂慮しているからだ。コメントをいたずらに削除するなというのは、コメントを書くこと自体に価値があるのではなく、第三者に該当ブログの歪さを知らしめることが目的で、コメントはその手段である。


 この部分に篠原の目的が全部書かれている。
 つまり、

・相手を左翼扱いして攻撃対象に仕立て上げる。
・自分から言ったのだから、と言いがかりを付ける。



 何て言うか、あれだよ。警察が「ここで自供しておけば裁判で有利に成るぞ」という嘘と同じである。言えば確実に犯罪者にしたてあげられれ、無実の罪を着ることになる。
 そもそも左翼を見つけだして掣肘を加えるのは反日ブログ監視所が自ら執り行おうとしているのではないか? 
 だとすれば、なんで自己申告を強制するのか?
 おかしな話である。
 そういう手間は反日ブログ監視所が率先してやるべきことであり、目星をつけた相手に「やれ!」と強制するようなことなのかねえ・・・・。
 反日ブログ監視所の整合性のなさは相変わらずだ。


 この部分の問題点はもう一つある。
 反日ブログ監視所と篠原静流につきあってきた方々ならばご存じかと思うが、篠原は自分のことを「右翼でも左翼でもない中道派」と言っている。
 反日活動は基本的に左翼の十八番であり、それに対抗するのは普通に考えれば右翼である。
 にも関わらず自分の事は「どちらにも偏ってない」と強弁するのはどういう事なのだろうか?
 篠原こそが、そして反日ブログ監視所こそが、「あたかもそれが一般的な主張であるかのごとく装っていることで善意の訪問者へ誤解を与えること(これ自体がデマなのである)」に全力を挙げてるとしか思えない。
 いい加減、自分は右翼的な立場、あるいは保守的な立場、少なくとも反日である左翼とは絶対に交わらない立場にいる、と明言したらどうなのだろうか。
 どっちでもない中道派というならば、左翼に対しても寛容で有るべきであろう。
 あるいは左翼も許せないが右翼もダメだというならば、さっさと右翼も攻撃してくれ。それが中道派なのではないのか? 少なくとも篠原や反日ブログ監視所の行動を見ていると、左右問わずに攻撃を仕掛けても良いと思うのだが。

 
 なお、左翼についてであるが。
 左翼にも色々と派閥があるらしい。
 あるいは意見の対立があるようだ。
 左翼と一括りにしても、その内実は様々である、と聞く。
 しかし、俺にはその違いがどうにも理解できない。細々とした違いはともかく、結局の所「日本殲滅」「自分に都合の良い日本の構築」を目的としていることに変わらないからだ。また、それが政権を握った一部の左翼以外の大多数にとって苦痛と苦難をもたらす政治体制になっていくのが明白であるからである。これらについては今後述べていく事もあるだろう。また、そ考えの一部は「適当なこと181」でも述べている参考にしていいただければ幸いである。


 反日ブログ監視所に話を戻そう。


 この方は相変わらずコメント削除はこういう理由だからだ、と勝手な理屈をほざいている。

>コメントをいたずらに削除するなというのは、コメントを書くこと自体に価値があるのではなく、第三者に該当ブログの歪さを知らしめることが目的で、コメントはその手段である。


 いや、ここまで正直に述べてくれるとは思わなかった。
 コメントの目的は、コメントを眺めた何も知らない人達に「このブログの書いてることは間違ってます!」と知らしめるためだという。
 でも、コメントしてる奴の方が間違ってる可能性は全く示してない。
 あくまでそれは「コメントしてる奴の視点」での話である。
 とある漫画からこの状況に相応しい台詞を引用することで、この反日ブログ監視所のおかしな所を解説しよう。たぶん、この台詞だけで反日ブログ監視所のほざく「コメント絶対優位説」とでもいうべき戯言を粉砕できるだろう。


「ありがたいことに私の狂気は君たちの神が保障してくれるという訳だ。
 よろしい、ならば私も問おう。

 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?

(「HELLSING」平野耕太 少年画報社 129ページより)


 頭の悪い人の為に分かりやすく言葉を入れ替えよう。

「ありがたいことにそのブログの狂気は反日ブログ監視所をはじめとするコメントする方々が保障してくれるという訳だ。
 よろしい、ならば私も問おう。

 君らの反日ブログ監視所やコメントする連中の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?



 篠原はかつてネットのどこかにおちてた右翼・左翼の判別テストなどを持ち出していた。それによると篠原は「右寄りではあるが中道派に入る」ということらしい。
 で、それが一体何の保障になると言うのだ?
 そのテストは本当に公明正大であり、何の欠陥もないというのか?
 馬鹿馬鹿しい。
 コメントする連中が「このブログに書いてあることは間違いだ」とほざくのは飼ってであろう。
 が、そんなコメントが正しいなどという保障はどこにもない。



 が、反日ブログ監視所の目的は正邪善悪の判別ではない。
 ようするに、
「こんな風に思われたくないならば、コメントを削除するな、承認制にするな!」ということである。
 全くあの手この手でよくやってくる。馬鹿馬鹿しいことに労力を使わずに、素直に反日的な部分への反対意見を述べておれ、といいたい。
 言うだけ無駄なのもこれまでの経験で分かっているが。


 あと、これは「お前が言うな」の典型であろう。


>しかしここがポイントなのであって、彼らサヨクは左翼であることを明確にせず、中道=ノンポリであるかのように振舞うことで、中間層を取り込もうとする。だからサヨクブログが非難されるのである。


 はいはい。
 中道派を名乗ってる篠原くんがいうような事ではないね。
 これも簡単に言葉を入れ替える事が出来る。

しかしここがポイントなのであって、彼ら反日ブログ監視所と篠原ちゃんたちご一考右翼であることを明確にせず、中道=ノンポリであるかのように振舞うことで、中間層を取り込もうとする。だから反日ブログ監視所とその同調者が非難されるのである。


 そして篠原の真の目的である「コメント欄の解放」「トラックバックの解放」が声高らかにうたわれる。


>したがって、自分の立ち居地を特に表明しないブログはコメント欄を開放し、第三者にそのコメントをも見る機会を与えることで、せめて当該ブログが極端にサヨク掛かっていることを知らしめる必要がある。ノンポリ気取りのサヨクの、その化けの皮をひっぺがす必要がある。


 ゲハハハハハハハ!!!!!
 と大笑いするところなんだろうなあ。いや、篠原さん、凄いギャグですよ。感動しちゃう。
 コメントの承認制や削除・書き込み禁止措置を怠れば、対立する陣営から野次や罵倒が目的の連中が大挙して押し寄せるのは明白。
 講演会などでそういう連中が警備員によって退場させられるのと同じである。
 また、株主総会における総会屋なるヤクザと同じであろう。株主である、という理由で企業をゆすって金を強奪しようと言う輩と変わらない。


 それに、そう思うならば勝手に思ってろ、とも言える。
 なんでこっちがあんたの言うとおりにしなきゃいけない?
 馬鹿なことは自分のブログで書いていろ。
 またもや凍結されないように注意する必要はあるがな。



 そして篠原は責任を全部他人に押しつけるという左翼のような事をしている。
 俺が貧乏なのは俺が悪いんではなく社会が悪い。
 俺が出世できないのは俺が無能だからではなく、他の誰かが俺を押しのけようとしているからだ、というあれである。
 そんな戯言を、さあどうぞ。


>反日ブログ監視所も、この発想の延長線上にある。仮にサヨクブログがすべて自分の政治的立ち居地(サヨク)をブログ上で訪問者に誤解を与えないように明確にし、コメント欄も開放していたなら、私もブログを作成してまで社会に警報を鳴らす必要がない。


 はあ?
 反日ブログ監視所はコメントもトラックバックも承認制だろうが。
 何を言ってるんだ。
 そこまで言うなら、さっさとコメントとトラックバックの承認制をやめて、全部を表示するようにしろ。


 自分が何もしないのに、他人には強制する。
 そんな反日ブログ監視所のデタラメには何一つ触れずに、自分の都合だけを垂れ流ししているのは「ふざけた態度」と言って良いだろう。


>ここでは悪名高い「右翼討伐委員会」というブログなどは、取り上げてこなかった。そのブログはコメント欄を開放し、エントリーに対する反論をも訪問者は見ることができるからだ。こういったブログに対しては反日ブログ監視所は必要ない。放置すればよい。すべてのサヨクブログがこのようであればすべて放置すればよい。反日ブログ監視所は不要である。


「全部左翼が悪いんだ。
 反日ブログ監視所だって、本当は必要ないんだ!」
 悪いのはイヂメの対象である誰かに押しつけ、自分は安全圏にいる。そんなクソガキの戯言を、こうしてネットで見るとは思わなかった。
 まあ、左翼が悪い、という考えには大いに賛同するが、反日ブログ監視所の存在は不要極まると言っておこう。無くてもよい。
 なぜならば、反日ブログ監視所の目的は「コメント欄解放による罵倒コメントの大量発生」に他ならないからだ。
 それが証拠に反日ブログ監視所におけるエントリーは、コメント欄の解放、承認制の撤廃、書き込み禁止措置の阻止とコメント削除への反対に終始している。
 単に反対意見を述べたい、左翼への対抗言論をはりたい、というならばコメント欄に固執する必要はない。自分のブログで色々と書いていればよい。それを見に来る人に見せればよい。
 なんでブログのコメントにこだわるのか理解できない。
 なぜならば、星の数ほど存在するブログに一々書き込みに行くが面倒だからである。
 暇人でもないかぎりそんな事をしている余裕はない。
 ブログならば自分で消さない限り、ブログを提供している会社で問題が発生しない限りネット内に自分の意見が常駐する。あちこちのブログのコメント欄にこだわる必要などこれっぽっちもない。
 あえてコメント欄やトラックバックにこだわるのは、「俺の事無視すんなー!」と叫んでるにひとしい。仲間外れにされて泣きわめいているガキと同じである。


 そして最後に自分勝手な基準を「世間の常識」のようにほざく。


>自分のブログへの他所での反論
【一般人】
自分が他のブログの記事に疑問を感じたり、ぜひ反論したいときには、反論記事を書くが、名指しされた側が再反論したいときにはそれができるように、コメント欄を開放するか、承認制にしていても、本人のコメントは承認する。
【反日日本人】
名指しして非難した相手が、その記事に反論するコメントを入れれば、削除する。承認しない。

 

 あくまで反日ブログ監視所基準である。
 それを明記しないで勝手に「一般人はこうなんだ!」と言われてもねえ。
 罵倒や暴言を相手しないのは当然なんで。そういう連中とは交わらないように、また接触しないように、場合によっては警察や精神病院などを用いて隔離するのが世の中ってもんだ。
 しかし、自分に都合の悪いコメントやトラックバックを承認制で排除している反日ブログ監視所は、反日日本人なんであろうか? だとすると反日ブログ監視所は反日ブログ監視所を非難しないといけない。
 いや笑える論理展開だ。
 わははははははは!!!!!!!!!



 そして名指しされたことに対する不満が最後に爆発する。


>※こういった反日はよく「意見を交わす必要がないから」という言い訳をするが、それなら最初から名指しするべきではない。自分から相手を非難攻撃するエントリーを立てたなら、それに対する言論も自分のブログで受けるべき。自分は名指しでアヤをつけるが、その相手本人からの反論は表示させないというのは非人間的である。こういうことが平気でできるのが反日日本人や、その取り巻き連中なのである。


 対立する者達が接触面で衝突するのはよくある話。
 また、意見を交わす必要がない、というのは手段の一つとして重要。
 今現在の日本と北朝鮮の関係などがこれに当てはまる。我々日本人は北朝鮮と国交を回復するべきだろうか? そうではないだろう。
 そんな事を望んでいるのは、日本に帰化したエセ日本人の北朝鮮人や元韓国人、日本の尊厳や日本の未来、同胞への同情や愛情に欠ける欠陥人間であろう。そういう人間を名指しで非難し、「意見を交わす必要がない」というのは至極当然と思うのだが。
 それとも反日ブログ監視所はねばり強く交渉して解決しようと言うのだろうか?
 それにしては態度が硬すぎる。もっとおおらかになってはいかがか、と言いたい。


 また、これの最後の部分については特にとりあげておきたい。
 次の部分だ。

>自分は名指しでアヤをつけるが、その相手本人からの反論は表示させないというのは非人間的である。こういうことが平気でできるのが反日日本人や、その取り巻き連中なのである。


 まあ、これも注意が必要なんだけどね。


 荒らしのブログに行って書き込んではいけない。そうすることでIPが相手に知れるからだ。
 それがどれほど危険なのかは、「2ちゃんねるから子供達を守ろう」に詳しい。
 なので、こういう誘いに乗ってはいけない。
 コメントなどする必要はない。
 無視して勝手に叫ばせとくか、自分のブログのエントリーにでも書いておけばよい。

 参考までにバナーを貼っておきます。
 皆さん、お手透きの時にでも、いや、可能な限り早いうちに下記の場所にてネットにおける危険性について触れておいて下さい。

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!


 さて、「名指しでアヤをつける」などと行ってる反日ブログ監視所ですが、再び冒頭に掲げた三つのエントリーを再度掲載しよう。


・「市バスの後車ボタンは無線」?
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-95.html

・それで反論したつもりか?
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-97.html

・バナーはバーナーとは違うぜ同盟
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-114.html


 はて?
 これらは「名指しでアヤつけてる」ことにはならんのか?
 反日ブログ監視所基準ではそうなるらしい。理解しにくいことだが。
 言ってることとやってることが全然違う、正反対である、という良い見本でした。


 そして、こんな事が平気で出来るのが反日日本人のようなので、反日ブログ監視所なるところは反日日本人の手によって運営されてるのでしょう。


 年明け早々に笑える真実をありがとう。
 呆れてものも言えなくなるところだったよ。
 いや、笑った笑った。



<<結論>>



 メンドクサイから、各自自分のブログの冒頭に「私は右翼だ!」と書いておきましょう。
 立場を明記しないから「コメント欄を解放しろ!」とうるさいようなので、立場を明記すれば言わなくなるでしょう。
 あるいは「私は中道派です」と言えばそれでいいのかもしれない。
 他にも「親日日本人です」とか「私は愛国者です」とか書いておくのも有効かもしれない。
 これでも文句を言うようならば、反日ブログ監視所とそのお仲間は嘘つきの集団という事で各自エントリーでもあげてやりましょう。
 いやー、どんな反応見せるか楽しみだ。



・文末掲載
「美爾依さん観察日記避難所」
http://hannichi.blog76.fc2.com/blog-entry-123.html


美爾依さん観察日記というタイトルのブログが存在する。
BLOG−「カナダde日本語」のエントリーの主張の誤りを指摘するコメントを入れたところ、管理人:美爾依から「ネット右翼からの嫌がらせ」だと根も葉もない誹謗中傷をされ、「自分でブログを持ってそこに書け」と言われたので、そのとおりにしたら、今度は美爾依からプロバイダのgooに削除要請されたという。

自分の政治性の高いエントリーに自分の主張とは正反対のコメントが入ったときの反日日本人や、無知からくる反日日本人への同情派の常套句は「それらのコメントが管理人に削除されたり非承認にされたとしても、それは言論の弾圧ではない。なぜなら言いたいことがあるならいくらでも無料のブログサービスがあるから、自分でブログを持って、そこに書けるから」である。

しかし、自分の記事に対抗する言論を他のプロバイダのブログで展開しても、わざわざ削除要請されては一体どうやって言論の自由が守られるのだろうか?

ここで反日日本人や無知なるがゆえの彼らへの賛同者と、彼らの行為を看過できないものたちの行為の一般的な違いを明確にしておこう。


エントリー
【一般人】
■ブログで政治的主張を展開
【反日日本人】
■ブログで政治的主張を展開(同上)

反対意見のコメント取り扱い
【一般人】
■反論は反論として、その存在にも価値を認めるため、単に反論されたからといって削除したり非承認にしたりしない。

【反日日本人】
■自分の記事に反論するのは「ネット右翼だ」と決め付け、自分を被害者に仕立て上げ、そのコメントに反論しない(本当は「できない」)こと、削除すること、非承認にすることの正当性の理由にする。

※ここで誤解のないよういただきたいのは、管理人の削除・非承認それ自体が問題なのではないということだ。「自分のブログはサヨクの(あるいは右翼の)立場から書いているので、政治的に反対の立場のコメントはするな」と書かれているなら話は別であるということ。

なぜなら、それが目立つところに書かれていれば、訪問者は「ははーん、これはサヨクの主張というものか、と理解できるからだ。ネットサヨクのブログに遺憾を感じるものは、あたかもそれが一般的な主張であるかのごとく装っていることで善意の訪問者へ誤解を与えること(これ自体がデマなのである)を憂慮しているからだ。コメントをいたずらに削除するなというのは、コメントを書くこと自体に価値があるのではなく、第三者に該当ブログの歪さを知らしめることが目的で、コメントはその手段である。

しかしここがポイントなのであって、彼らサヨクは左翼であることを明確にせず、中道=ノンポリであるかのように振舞うことで、中間層を取り込もうとする。だからサヨクブログが非難されるのである。

したがって、自分の立ち居地を特に表明しないブログはコメント欄を開放し、第三者にそのコメントをも見る機会を与えることで、せめて当該ブログが極端にサヨク掛かっていることを知らしめる必要がある。ノンポリ気取りのサヨクの、その化けの皮をひっぺがす必要がある。

反日ブログ監視所も、この発想の延長線上にある。仮にサヨクブログがすべて自分の政治的立ち居地(サヨク)をブログ上で訪問者に誤解を与えないように明確にし、コメント欄も開放していたなら、私もブログを作成してまで社会に警報を鳴らす必要がない。

ここでは悪名高い「右翼討伐委員会」というブログなどは、取り上げてこなかった。そのブログはコメント欄を開放し、エントリーに対する反論をも訪問者は見ることができるからだ。こういったブログに対しては反日ブログ監視所は必要ない。放置すればよい。すべてのサヨクブログがこのようであればすべて放置すればよい。反日ブログ監視所は不要である。

自分のブログへの他所での反論
【一般人】
自分が他のブログの記事に疑問を感じたり、ぜひ反論したいときには、反論記事を書くが、名指しされた側が再反論したいときにはそれができるように、コメント欄を開放するか、承認制にしていても、本人のコメントは承認する。
【反日日本人】
名指しして非難した相手が、その記事に反論するコメントを入れれば、削除する。承認しない。

※こういった反日はよく「意見を交わす必要がないから」という言い訳をするが、それなら最初から名指しするべきではない。自分から相手を非難攻撃するエントリーを立てたなら、それに対する言論も自分のブログで受けるべき。自分は名指しでアヤをつけるが、その相手本人からの反論は表示させないというのは非人間的である。こういうことが平気でできるのが反日日本人や、その取り巻き連中なのである。
posted by つれづれなるまま・・・・に? at 15:12| Comment(3) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

適当なこと181

 さて。
 ネットウヨクを騙るとある御仁のブログが、この程「凍結」ということになった。
 反日活動への鉄槌、という事で頑張っておられたようだが、やってる事がたんなる罵倒や誹謗中傷の類、もっと分かりやすくいうと「ガキの悪口」の類でしかなかったのだからこれも当然の結果と思う。
 身から出た錆としか思えないので何の同情もできないし、憐れみすら抱けない。
「自業自得だバカモン」「もうちっとマトモな事を主張しろ」と声を大にしていいたい。


 そんなネットウヨクの一匹である俺なのだが、これまで全く政治的な主張などを書いてこなかった。
 自分の立場を、自分の考えを一応は披露してはいたが、なんでそういう考えに到ったのかを述べてない。このままでは凍結という措置を執られた某人物と同じ穴の狢で終わってしまう。
 なので、今回は左翼・リベラル、特に共産主義のようなふざけた理論や思想、そういったものを毛嫌いする理由の一部だけでも述べてみたいと思う。
 しかし、残念なことに俺の考えは、俺が独自に考え出したものではない。
 左翼、共産主義、統制体制、なにより「国民をロボットのように扱う政治体制」を毛嫌いする事については、既にある他の人物の考えや著書を真に受けているにすぎない。
 そのあたりは、独自性だけを崇高なものとするアカデミック気取りのバカには理解されないだろう。
 だが、自分勝手な思いつきを偉そうに自慢するようなアホになるよりは、時代と歴史の中で取捨選択されてきたより良き智慧を素直に受け入れる方がよっぽどマシである。
 残念ながら俺には独創性もなければ、世の中の真理を発見するだけの智慧もない。そんな俺にとっては、今まである知識の中で有用なものを身につけるだけで精一杯である。
 せめてもの救いは、独創性を重視するアカデミック気取りのバカ共が、結局は昔から存在している理論や思想を繰り返し述べてるだけに過ぎないことだろうか。その一例が左翼であろう。
 連中は過去からの伝統よりも新しい考えが優れている、というのを売りにしている。しかし、そんな連中がしがみついてる理論や思想は、もう何百年も前から存在している。そう言って良ければ、左翼連中は昔からある「伝統」にのっとっており、なんら新しい考えを提示していない。
 こんな連中が伝統を破壊しようと言うのだから笑えてしまう。だったら自分らが学んだ理論や思想を破壊して新しい何かを構築しろ、と言いたい。


 以上のような事はネットで見受ける左翼連中の戯言を眺めていて感じた矛盾である。
 皇室もそうだし、日本の歴史や伝統を否定し、新しい体制を構築しようと言うのが左翼というものだろう。先祖が造りあげてきたこの日本というのを破壊したくて仕方ないようだ。
 耐用年数が過ぎて老朽化したものを新しい部品と交換する、というならまだ分かるが、左翼のやろうとしていることはそうではない。
 このバカ共がやろうとしているのは、まだまだ住み続けられる家をぶちこわそうとしている事であろう。強度計算に問題がある危険な建物でも何でもない、建築後何年もたっているが、まだまだ住み続けられる家である。それを倒壊させて新しい物を作ろうというのだからおそれいる。
 そんな必要もないのにわざわざぶちこわそうというその神経は、俺には理解できない。
 それでもこの家を再建するまでの間をすごす仮の宿があるならば、堪え忍ぶこともできるだろうが、そういう準備は全くしていない。
 それでも左翼は新しい家を建築する。
 しかし、元の主にこの家を受け渡すわけではない。
 左翼は勝手にぶっこわした家の主を追い出し、その敷地に自分達だけの家を造り、かつての住人達を自分達の奴隷として扱うのである。さもなければ、新しい家から放り出して野垂れ死にさせる。
 左翼とはそういうものだ。


 この家を国家。
 住人を国民。
 家をぶっこわす連中を左翼、とすれば分かりやすいだろうか。
 家の補修やリフォームは必要ではあるが、何も倒壊させる必要はない。とんでもない設計ミスをしているならばともかく、何年も何十年も風雪を耐え凌いできたのならば、構造上の問題はないはずだ。雨漏りや立て付けの悪いところは出てくるだろうが、家を壊すほどの手間をかける必要もない。
 にもかかわらずそれをやろうとする。
 全く理解が出来ない。


 仮に、本当に家を再建するのが目的だったとしよう。
 左翼連中が、あるいは国を憂える善意の者達(本当に善意から行動を起こす者達である)が家を再建するとしよう。
 では、本当にまともな家が建つのだろうか?
 そこに疑問を挟む者は意外に少ないように思う。ここが一番重要な所であるにも関わらず。


 家の建設には、専門知識が必要である。
 図面を引くのはもちろん、図面通りに家を建設していくためには相当な知識と熟練が必要である。
 左翼連中や善意の人々にそれだけの能力があるのだろうか?
 世の中には、熱意や努力だけではどうにもならない分野がある。現場の智慧もそうだし、緻密な計算に基づく設計などもそうである。どんな些細な事でも、現場で培った智慧、それに必要な経験というものが要求される。
 左翼連中や善意の人々にそんな能力があるとはとても思えない。
 家であるならば、優れた設計士と、腕の良い大工が必要だろう。素人には無理である。
 政治や国家についても同じ事が言える。
 いやしくも国民と国家を預かる以上、最低でも過去と同等かそれ以上の状態を保つ必要がある。それが国民の生活であったり、国家の安全保障であったり、国内の治安維持だったりする。
 それらを滞り無く実行していくために必要な知識や能力があるのか、という事が最大の問題だ。


 残念ながら左翼連中にそんなものはない。
 全くない。
 かつての社会党、今の社民党、共産党、民主党左派、公明党、自民党の左派。
 こういった連中の行動を見るにつけ、「こいつらには絶対に日本を渡せない」という思いだけが強くなる。


 例えば、自衛隊への反対。
 現実に核ミサイルを配備し、日本に照準を向けてる国家が日本のすぐ近くに二つある。ロシアと中国である。北朝鮮が新たな候補として加わるのは言うまでもない。
 こんな状況だというのに、自衛隊反対、などとほざくあたりどうかしている。
 おそらく、日本ではなく上記三国のどこかの(あるいは全部?)の工作員なのだろう。日本の滅亡を望んでいるとしか思えない。
 例え核ミサイルを除いても、膨大な軍事力を保有しているのがロシアと中国である。この点、北朝鮮はまだ安心できる相手だが、ロシア・中国は違う。
 問題は多々あるものの、ロシアはいまだに極東ロシア軍を保持しているし、中国は数だけならば数百万の軍隊を保有している。おまけに徴兵制の国々である。動員をかければすぐさま何倍にも膨れ上がる。
 これらを前にして自衛隊不要論を口にするのはあきらかにおかしい、と見るべきだろう。
 また、これらの軍備は日本に向けたものではない、というふざけた戯言もうんざりである。軍備というのは必要に応じて何処にでも使えるものである。周辺国に対しては特にそうだ。ロシア・中国に接している日本がこれらに備えるのは当たり前である。


 例えば、朝貢外交。
 ようするに、金をばらまくことである。
 ODAを通じて日本の金を色々な国にばらまかれている。
 その結果どうなったのか?
 金は金を受け取った国の首脳部の懐に入り、首脳部が牛耳る国営企業(とそこの幹部である首脳部の親族)の懐に入り、軍事費に使われる。
 援助先の国民が裕福にならないのはこのためである。
 国際親善のお題目のもと、周辺国の軍隊が強力になり、日本はどんどん危険な状態になっていく。
 更に笑えることに、援助先の国民はいつまでたっても貧乏のままである。
 なお、俺の知ってる限りで最も巨額の援助・・・・・・いや、貢ぎ先である中国は、これまで三兆円ほどの金をぶんどっていっているとか。その分の見返りはどこにあるのだろうか?
 その結果が反日暴動であったり、言質の日本企業への攻撃なのだから始末におえない。


 例えば、社会福祉。
 国民全員の面倒を国がみれるわけがない。そもそも国の役割は国民の生活空間を創り出すことではない。生活空間を外敵から守ることにある。また、内部の犯罪から守ることにある。
 寝る場所・食う物・着る物の面倒は、本来自分でどうにかするものである。
 にも関わらず、「弱者の保護」を名目にして、救済策を実施しようとする。
 バカも休み休み言え。
 老病傷苦はこの世にあって避けることが出来ないものだ。
 老いて衰える、病を患う、怪我を負う、そういった苦しみは程度の差はあれど誰もが一度は被るものだ。その面倒は自分でみなければならない。誰かの手助けが得られたならば、それは奇跡のような出来事と思うのが普通である。
 老病傷苦もいずれは必ずやってくるものとして備えておくべきものである。あくまで個人的に。
 誰かがやってくれるのが当たり前、なんて事はない。
 それを当たり前と思ってる馬鹿共が福祉を当然だと思っている。
 こんなの無用な負担でしかない。
 年金に、保険、失業手当。
 そういったもんはいらない。そんなもんで税金を増やすくらいならば、いっそなくしてくれ。そして手取りを増やせ。
 その中から貯金をしていけばそれでよい。
 そもそも、老病傷苦は避けられないとしても、数え切れないほど頻繁に襲ってくるものではない。病といったって風邪を数日こじらせるのがせいぜいだし、怪我だって転んでかすり傷を負うていど。失業してから雀の涙の手当を貰うくらいならば、貯金をため込めた方がよっぽど良い。老い先の心配だって、働けるうちに頑張れば良いだけのこと。
 一々国がちょっかいだすな。
 そして、そんなことをさせるな左翼。


 


 上記の他にもまだまだ色々あるだろう。
 だが、これらに共通するのは次のようなものである。


・対外的には、他国への追従・隷属
・対内的には、国の借金の増大



 左翼は様々な理由を付けてこの二つを実行する。
 これを一言で言うと次のようになる。


・日本滅亡のための努力


 日本人の一人として、これには断固として反対する。
 なぜならば、俺が日本で生まれ育ち、この国で生きていくからだ。
 将来、何らかの偶然や幸運、自らの努力で試算を築き、海外などに移住したりすれば話は別かも知れないが、今のところこの国で生きていくのは避けようがない。
 例え海外で楽に暮らせるだけのものを築いたとしても、出来れば生まれ育ったこの国で死にたい。
 そんな思いを抱いているだけに、日本は安泰であって欲しいし、繁栄してもらいたい。また、その為に出来ることは何でもいいからやっておきたい。


 その為にも、次のような事を求めるのである。


・対外的には、日本の意見を主張する。
 付き合う相手を選別するともいう。
 少なくともロシアや中国、北朝鮮などは敵対国として接していても、友好国にはならない。
 日本と仲良くしたいという国は他にたくさんあるのだから、そういった連中と付き合ってればよろしい。


・国の借金の削減
 否応なしに予算を削減するしかない。
 その為には、官僚機構や行政が動かしてる特殊法人などを売却・廃止するしかない。民営化も手段の一つ。
 それで潰れるならばさっさと潰れてしまえ。今まで言い思いをしてきたのだから、もう十分だろう。
 それで失業するならさっさとのたれ死ね。民間はリストラで何人もの自殺者を出したりしたんだ。
 「自分の命大事」だけでなんとかやってけると思うな。


 目指すべきは次のようなものである。


・小さな政府

 具体的にどうすればいいのか、というのが難しいが、とりあえず税金負担が少ないのが望ましい。
 その結果政府が行う福祉は無くなるだろうが、それで全然構わない。国民から搾り取らない分だけ手取りが増えるし、その中から貯蓄をしていけば良いだけの話である。
 所得税の最高課税率が50%というふざけた税率が、この国に高額所得者を生み出さない原因である。
 また、相続税があるから豊かな生活を後世に残すことも出来ない。累進課税とPもどもさっさと廃止するべきである。
 それで手にする給料に差が付くならばそれで良い。
 働く奴や有能な人間が巨額の報酬を手に入れるのは、世の摂理である。人間は誰一人として同じではない。有能なのもいれば無能なのもいる。ある方面で才能を発揮するが、別のことをやるとからっきし、というのもある。
 報酬差はそれが表れるだけだ。何一つ問題ではない。
 だいたい下流社会や格差社会を問題にする連中はたいてい左翼である。そんな連中が言ってることは胡散臭いと思って間違いない。
 何より、貧富の差がつく、というのが間違いである。どんな時代、どんな社会であっても貧富の差はある。どこにでもある。当然のようにある。それを無くして成功した社会はない。その事に早く気付くべきである。
 みんなと一者じゃなきゃイヤ! なんてのは、ベソをかいてるガキか、女の我が儘だけにしてもらいたい。




 断っておくが、俺も格差社会の底辺、下流社会に属している人間である。
 それでも、絶対に平等な社会は到来してもらいたくはない。
 そんな事をすればかつてのソ連、昔の中国のようになるのは目に見えているからだ。
 また、北朝鮮の現実が平等の結果を余すことなく示している。
 そんな事ならば、格差のある方がよっぽどよい。
 その格差が実力によってついたものならばなお良い。
 また、出世や成り上がりのための道が幾つも用意されてるならばもっと良い。
 今の日本はそういった社会である。
 絶対に越えることの出来ない差という意味での「格差」などどこにもない。
 せいぜい血筋によって制限される皇室・皇族になれないくらいである。
 だが、なれなくてどうだというのだ?
 日本国民で有れば、犯罪者でもないかぎり国会議員に立候補できるし、投票という形で政治にも多少は影響力を持てる。
 失敗する可能性を覚悟してるのであれば会社を作ることもできる。
 身分違いの恋というのはまだあるらしいが、それだって身分制度が絶対だった太古に比べればどれだけ緩和されたことやら。その良い例が、今上天皇陛下と美智子皇后陛下である。身分違いにもほどがある。
 格差というのは、生まれついた身分によって職業選択の自由が制限されたりすることをいう。
 全体主義国家の場合、職業選択すらさせてもらえない。左翼連中がよく非難する戦中の日本を思い出してもらいたい。労働への徴用などが良い例だろう。
 今の日本のどこにそれがあるのか? 犯罪歴があるからまともに就職できない、というのは差別でもなんでもないぞ。また、会社が求めるレベルで働けないから追い出されるのは当然だ。お前の都合で世の中動いてるわけじゃない。
 そういう事が分かってない連中が左翼に走ってるのだろう。正直、そんな連中の考えは全く理解できない。理解しようとも思わない。



 そもそも、日本に格差があるというならば、ホリエモンはなぜあそこまで出世することが出来たんだろうか? 村上世彰は? この二人を持ち出すのはどうよ、という話にもなるが、だったら孫正義や三木谷さんはどうする?
 他にも一代で会社を築いた人はいっぱいいる。そういう人達の本がいっぱい書店に並んでいる。
 もちろん誰もがこんな成功者になれるわけではない。失敗している人達だっている。
 だが、そういう人達は自分でその道を選んだのだろう。失敗を誰かに押しつけるのは間違っている。
 失敗がイヤならば、大人しくサラリーマンでもやってるしかない。
 上に昇るということは、何かに挑戦することである。挑戦には失敗と成功の二つがつきまとう。失敗が怖いならば、平々凡々に生きていくしかない。


 リストラされてしまった事を嘆いている人や、それに怒りを感じてる人、それが理不尽だと思う善意の人々にも、俺は「バカか」と言いたい。
 いてもいなくても同じな窓際族なんてのは追い出されて当然だ。会社は仕事をするところである。仕事をしない人間が追い出されるのは当然の結果。おかしいところは何一つない。
 むしろ、無能な人間を擁護する連中のほうがいかれている。
 うちの職場にもいるが、仕事してるフリしてパソコンに向かってる奴がいる。そんなのが長くいるというだけで責任ある立場にいる。まあ、下から数えてン番目というところだが、それでも下にいる人間にとってはたまったもんではない。
 こういうのはとっとと会社から放逐するべきである。
 似たようなことは官僚機構にも当てはまる。そいつがいるだけで人件費を腹罠糧はならない。その人件費は税金から抽出される。はっきりいって邪魔だ。さっさと公務員と行政法人などは削減してもらいたい。税金が跳ね上がるのは我慢できない。
 無駄を囲っているというのは結局自分にしわ寄せがくる。
 無能はさっさと首になってのたれ死んで貰いたいものである。


 というところまで書いて思ったんだが、リストラを嫌がる連中やそれに反対してる連中ってのは、無能者なんではないだろうか?


 まあ、それはともかくとして。
 ちょっとした仕事をするならばさして能力はいらない。
 挨拶ができて、パソコンに向かって文字入力ができて、電話の応対が出来ればさして問題ない。最低限の仕事にはありつける。そして、それでありつける仕事というのは、結構金になる。
 ちょっと気になったのでフリーマガジンやフロムAなどの求人雑誌でオフィス系統の仕事を見てみた。
 ・・・・・・事務系の仕事で時給1000円から。
 コールセンターでの電話受付は1200円からが当たり前。
 派遣会社で同様の事務処理系だと1500円とか言ってるんですけど。
 これって毎月20日・一日8時間労働として、16万円から24万円くらいは稼げるって事だよね。
 何か問題あるんか?
 つつましくやってくんなら十分生活できるぞ。
 結婚して手も、旦那がこういったところで働いて、女房がちょっとパートしてれば生きてける。何が問題なんだか。
 おまけに、これが何十件何百件とある。リストラされても生きていけないほど苦労する事があるとは思えないのだが。
 こんな状況で不況だと騒いでる人達の考えが理解できない。
 本当に不況だったら、そもそも求人情報だけでなりたつ雑誌が存在するわけもない。
 まあ、これはバイトの話だが、こんなバイトでも首になるのならば、本当に無能という事だろう。もはや救いようがない。むしろそれは会社ではなく、首にされる人間の方に問題があるという事だろう。責任を社会に押しつけないでいただきたい。


 こういった状況に対して文句を言ってる左翼の寝言を欠伸をかみ殺しながら聞いてると、一つの疑問が浮かび上がってくる。
 すなわち、これ↓である。


「あんたら、楽して王様(あるいは社長、資産家)になりたいの?」


 どうにもそのように聞こえてくる。
 こういうのをまさしく戯言・寝言・妄言というのだろう。
 俺はそういうのが反吐が出るほど嫌いなので、そういう考えは断固として排除していきたいと思ってます。
 それなりに成功したければ、社会(あるいは会社など)が求める能力をみにつけなさい。
 それがイヤならば、自分一人でやっていける道を探しなさい。
 何より、それに挑戦する事もなく現状に甘んじてるならば、その口をさっさとつぐめ。自分が何も努力しないで、行動もしないで現状に甘んじてるならば、それは誰のせいでもない、あなたのせいである。


 本当に政府や一部の金持ちや特権階級が世の中を言いように操ってるならば、最近のIT長者のような存在が誕生する事もなかった。
 ニューリッチと呼ばれる者達が出現する事もなかった。 
 セレブなんて言葉やハイソ(これは古いかな?)なんてのが出てくるわけがない。
 新しい富裕層が出現しているならば、それは世の中には越えられない格差が存在しない事の証拠でしかない。
 それがなんでダメなのか全く分からない。


 こういった事は、ある意味社会の変革である。
 左翼とは社会が旧来のまま制度披露を起こして自滅するのを恐れていたのではないのか?
 だったら、こうした新しい富裕層の誕生を喜んだらどうだ。
 これらは旧来の富裕層とは別の存在である。これらが旧来の勢力と衝突するのはホリエモンが証明して居るではないか。フジテレビ買収や野球球団買収などで旧来の連中とぶつかっていたのを忘れたのか?
 既得権益を握ってる旧勢力に果敢に対抗した彼らを賞賛しないのか?
 それは、「俺に出来ないことをやってる奴が居る、ゆるせねえ!」というあさましい嫉妬ではないのか?


 自分がやりたかったことを他人がやってるからユルセネエ。
 そういう感情はよくわかる。
 だが、そう思うならば自分もそうできる立場にいくよう努力するべきであろう。そうなれるように挑戦するべきである。
 それが出来ないで叫いてるようなバカの言うことなど、まともな人間は誰も聞いたりはしない。
 行動しない奴は常に無視される。
 それが世の常だ。


 選挙が良い例だろう。
 理由や理屈を付けて投票しない連中がいるから、組織票を動かせる連中がのさばる。
 組織票を嫌う連中は口々に非難するが、自分は選挙にいかない。
 行動がちぐはぐである。
 俺一人が投票しても意味はない、というのがその理由らしいが、だったら諦めろ
というしかない。文句があるなら、自分一人でも投票に行くべきである。全てはそこから始まる。
 左翼が嫌いな小泉郵政選挙を思い出してもらいたい。
 普段選挙に行かない連中がほんんちょっと動いただけであれだけ変わるのである。
 意味がないなんて言ってないで行動するべきである。
 自分一人が投票に行くのは難しいことではないのだから。


 文句を言う連中というのは、この選挙に似ていると思う。
「言うだけで何もしない」
 そんな連中の言うことなどに傾ける耳はもっておりません。





 長くなった割にはまとまりのない話でした。
 でも、俺が左翼を嫌う理由の一端でもご理解していただければ幸い。

 最後になりましたが一言。
 コメントやトラックバックは、賛成意見しか反映しません(笑)
 上記の事などへの反論は、黙殺されやすいコメントではなく、自分のブログなどでエントリーとしてアップしましょう。
 なお、当然の事ながらトラックバックもこちらの都合で取捨選択しますのであしからず。

(しかし、こんな個人の戯言に反応する人っているんかいな?)
posted by つれづれなるまま・・・・に? at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がない ブログに表示されております。