テレビも見ない、ラジオも聞かない。ネットにも最近つながってない、という状況では世間の流れなんてもんがわかるはずもない。
それでも福田内閣が誕生したのは何とか知っておるが、まあ、どうでもいいわな。日本が崩れていくのは目に見えておる。いまさら嘆いても始まらない。これを求めたのは日本人の大半であるし、その結果起こるさまざまな出来事はすべて日本人の責任である。
まあ、マスコミの垂れ流す情報やら、功績のほうには目を向けずにしくじりのほうにばかり目を向けていたのだからそれも仕方ないのか、な?
そんな連中とは一緒にされたくはないが。
こちらとしては、無能が下流に流されていくのも、能力あるやつや努力したのが上に上っていくのも、その結果出てくる格差も当たり前と思ってるので、これがさえぎられるのが少々・・・・・いやカナリいたい。
何より、平等の掛け声のもとに行われる努力した連中(=金持ちになったものたち)への迫害が本格化するのかと思うと目も当てられない。
もともと人間は格差がある。
それは生まれた身分もそうであるし、もって生まれた能力でもある。
性格・人格、後天的な努力(それをしようという根性すら)も違う。
やるヤツは人の二倍三倍働く(その結果手取りが増える)し、さもなくば要領よく(無駄な手間は省き、要点をまとめて効率よく)仕事する。
あるいは、危険を覚悟でリスクのあるところに足を踏み込み(起業もそうだし、株などの金融に入っていくのもそう)、知恵を使って持ってるものを増やそうとしていく。
なんにせよ、普通にはやってない。やってないから普通なだけの人間より大きく稼ぐ。
それもしないで「格差」を叫ぶのは間違いだろう。
いや、格差を叫ぶのは問題ないのかもしれない。
稼いだヤツが有能で、それをしない自分が無能、もしくは安全なところに潜んで何もしなかったと自覚してるのだろうから。
しかし、何もしないで格差が開くのを悔しがってるような連中がなんで格差に文句を言うのか。
まったく理解できない。
俺も最底辺である(と思われる)ホームレスやワーキングプアよりはましなところにいるにすぎないのかもしれない。
だが、生活してほんの少し趣味に手を出し、それでも毎月過ごしていけるだけの金はある。
酒もタバコもやらないし、付き合いもよくないから変な金の使い方をしないだけ、ともいえる。まあ、いわゆるオタク趣味はあるが、さほど金を使ってるわけでもない・・・・・と思いたい。
結構気楽に暮らし、それでちゃんと生きていけるのだから文句はない。これ以上を望むならば今以上に働かなくてはなるまい。
で、俺の場合これ以上は勘弁と思ってるからこのあたりにいる。これは俺の責任である。誰が悪いわけでもない。
人によって考えはさまざまだろうが、「女房子供をもって、なおかつ自宅(戸建て、マンションは問わず)がある」というのを求めるならば、寝る間も惜しんで働くのが普通だろう。
そしてそれは努力してるヤツか、能力のあるヤツの特権である。
手抜きして生きていこう、誰かにたかって生きていこうなどと考えてるやつには本来できないことである。
今までの日本は、少なくともバブルの頃の日本はそれができていたかもしれないが、そんなの例外だ。
そして例外を基準にしてはいけない。
しかし、世の中というのは偽善者が多いようで、他人の金である税金を使って最底辺(と思われるあたり)にいる連中に施しを与えるのが正義であると考えているようだ。
福祉を充実させ、フリーター・ニート問題を解決させよう、としている。
また、ワーキングプアも何とかしようと思ってるようで。
頭が悪いとしか思えない。
フリーター・ニートはそいつに能力がないかやる気がないのが問題である。こういうのはほっとけばよい。餓死するか途中でやる気を出して死に物狂いになるかはそいつしだいだ。
死なせたら、厳しい生活させたらかわいそうだ、などという甘ったれた考えで接するな。マザコンボーヤを増やすだけだ。よっかかる相手がママか社会(政府)であるかの違いだ。
ワーキングプアに関しても能力問題であろう。
業種自体が縮小傾向にある、他にかわりがいくらでもあるようなものならば否応なしに値下げ競争になる。いやでも賃金は低く抑えねばならない。
また、能力がないならば高い能力を要求される、そのために高賃金の職につけるわけもない。
低い賃金の労働も似たようなもので、低賃金というのは「誰がやっても同じ。大差はない」から低賃金になる。
俺がこの辺りにいるからよくわかるが、もし俺が今の職場からいなくなっても誰も困らないだろう。一週間もすれば他の誰かが代わりにがんばってくれる。そして職場は俺がいなくなる前と同じように仕事をこなしていく。
こんな人間がどうして高賃金で雇われるのか?
少しでも賃金を上げたかったら、残業代を稼ぐか、自分で勉強して技術を身につけ、能力を磨くしかない。
そしてそのための時間と費用を会社に要求するな。
会社は「能力のある人間が集まって仕事をする場所」である。
能力もないのに会社に来るな、と言いたい。ささやかな実体験であるが、無能なやつや屁理屈こねて仕事をやらないやつなどがいるとそれだけで能率が下がる。いないほうがよい。できればこの世からも消えてもらいたい。
こんな連中の支援のために、なんで会社(ひいてはまともに働いてるそのほか大勢の人々)がリスクを背負い込まねばならないのか。
それは努力してる人、普通に生活している人への虐待である。
一応いっておくが、ここでいう「普通」とは本当に普通の人々である。
特に能力があるわけでもない、よくある仕事をごく普通にこなせる人である。人の何倍も働けるようなやつや、どんどん出世していく人間ではない。
能力や技術的には、そうしたエリートからは劣るだろう。
いわゆる中間層というべきか?
無能というのは、こういう中間層を含めたそのほか大勢への無駄な負担になる。
そしてこんな無駄な人間を何とか生かしていこうとしているのが、いわゆる社会正義やら福祉政策やら社会政策である。
正直反吐が出る。
まず基本に立ち返ってもらいたい。
人間に限らず、この世に生きるものは「自分で糧を見つけるかつくる」のが基本のはず。
なぜならば、
「稼いだ以上に消費することはできない」
からである。
「稼いだ以上に消費することはできない」
この意味を理解してる人間がどれほどいるのだろうか?
いわゆる社会福祉などを求める連中には皆無だと俺は思っている。
もし本当にこの意味を理解してるならば、社会福祉なんて口にしないだろう。夢想だにしないはずだ。聞けば嫌悪感を抱くはずだ。
この世は何もしないで生きていくために必要なものが提供されるほど甘くはない。
衣食住という生きていくための基本セットからして「作り出さねば手に入れられない」ようになっている。
木の実を採取してくる育てる必要はないかもしれないが、その場合でも山の中に分け入らねばなるまい。
洞穴にこもるにしても、洞穴を見つけねばならない。
衣服なんて作り出さねば存在しない。これなしで生きていけるのは赤道付近の暑い地域に限られるだろう。
ごく限られた地域を除き、何もしないで生きていくことなどできはしない。
生きていくためには否応なしに稼がねばならないのだ。
であるならば、稼ごうとしないやつが生きていく資格などない。
稼げないならば死んでいくしかない。
基本的にはそういうものだろう。
まだ未熟な子供や、勤めを果たした老人、怪我や病気で一時的に戦線を離脱せねばならない者はともかくとして。
こういう例外的な者達(未熟な者たち、功績のある者達、不慮の事故など)を助けるというならばまだわかる(それでも今まで稼いだ分で彼らを養わねばならないのは理解するべきだろう。仕方ないとは思うが)。
しかし、そうでない連中にまで手を伸ばそうというのはどういうわけなのだろうか?
人間皆平等、というふざけた言葉のもとでこんなばかげたことが実施されてはたまらない。
国の借金というのはこういうところから発生する。
やらんでいい手助けのために、福祉は必要という根拠のないバカの信念のために、まじめに働いてる人々が圧迫される(税金や年金などの源泉徴収で)。
それでも足りずに国責を発行して金を集めている。
言葉をごまかしているが、国責とは借金である。
借金はするもんじゃない、と俺は親に教わり多くの人に同じようなことを言われてきた。自分で考えてみても、借金はしないほうがいいな、と思うのだが、そう思わない人がこの世には多いようだ。
カード破産などには大騒ぎするのに、国の借金には何も言わないのはどういうことなのだろう?
小泉時代から安部政権にうつり、国責は25兆円にまで下がった。
その結果福祉は圧迫されたが、これは当然である。本来必要ない物だし、あってはいけないものですらある。それがなくなるのはめでたい限りであったのだが、どうやらそう考えないアホが大勢いたようだ。
なるほど、借金してまで自分の取り分を確保し、それを未来の青少年たちに押し付けようというのか。ひどいクズばっかである。
社会主義や共産主義の社会政策、福祉政策が間違っていた、それに賛同していた自分たちがバカだったんだ、という反省はないのだろうか?
そんなものに頼らず、自分の食い扶持と老後くらいは自分でなんとかつくる、という気概はないのだろうか?
ろくな蓄えがなくても、それは自分の責任だ、という覚悟はないのだろうか?
それはあまりにも無責任だろう。自分自身に対して。
自分以外の誰かに手を差し伸べられる偉人になれとはいわんが、自分自身の面倒くらいはみたらどうだ、といいたい。
まあ、いっても無駄だろう。
日本人は自由が嫌いで、
努力が嫌いで、
自分以外の誰かにたかるのが大好きな、
生来の共産主義者・社会主義者でしかないのだから。
反論異論は多々あるだろうが、そんなもん受け付ける気はない。
今これを読んでるあなたにあなたの考えがあるように、これが他の誰のものでもない俺の考えなのだから。
これを受け入れる必要もないかわりに、
あんたの考えを押し付けられる必然も必要も俺にはない。