しょーもない人のしょーもない行動はまだ続いてるのか、と思ったりする今日この頃。
その概要は下記の場所を参照していただければよろしいかと。
保身と責任転嫁に必死な『反日ブログ監視所』管理人
http://komichin.blog80.fc2.com/blog-entry-117.html
まず人間関係の基本だが、
・相手にしてほしかったら、相手にあわせろ
・反対の立場をとるなら、衝突になるのは当たり前
・自分が正しいというのは自分にしか通じない
・自分の基準で相手を裁くならば、相手の基準で自分も裁かれる
というのくらいは理解してもらいたいもんだ。
篠原の言動は、
「そういう事を言う連中もいる」
「それに賛同するやつらもいる」
「でも、それが正しいとは限らない」
で終わる。
まあ、反日に対抗する、というのは理解できるが。
もっとも、反日の基準がポストコロニアリズムだけってのはどうよ?
守り伝えていかねばならない日本てのは、「父祖が築き上げ、子孫に渡していきたい自由な国」ではないのかねえ・・・・・。
その自由を、「今まで何とか伝えてきた。これを今後も継続する」というところにある。
「そのために、自由を何とかはぐくんできた、また維持してきた過去や現在の制度を何とか維持し、必要なら改善して伝えていく」というのがいわゆる保守だろう。
「これに反するのが反日」というならまだわかるが、「旧植民地・旧支配地域の連中がいってくる文句」であるポストコロニアリズムだけってのはいただけない。
まあ、篠原って輩は、
「反日に該当しそうな連中をネット上でいたぶって遊ぶ」
ことにあるようにしか見えないので、そんなことはどうでもいいのだろう。
いってみればヤツのよりどころは「正義」や「道理」にしかあるまい。
もっとも、
・正義や道理というのは、個々人の勝手で使うことはできない
・それは後世から見て、「あれは結果として正しかった」「あれはその当時は正しかったかもしれないが、やはり間違ってた」というようなときにしか使えないだろう。
そんなもんをふりかざしてどうすんのだろうか?
ま、あれだ。
コメントやトラックバックを承認してもらいたいなら、こっちに都合のよい事を書いて来い、というだけの話である。
それがいやなら、こちらの目に触れないところで勝手にやってろ、というしかない。
議論がしたいなら、それに応じてくれるやつだけを相手にしてればいい。
ただ、議論てのは結局のところ「理非を問わず勢いのあるやつが勝つ」というもんなので意味があるとはまったく思わない。
そもそも議論というから何か高尚なもんに思えるだけで、その実態は「言いくるめ」「嘘」「揚げ足取り」の応酬である。
アホらしくてやってられん。
久々にあほな人がいるなあ、と思ったのでエントリーにしてみた。